小説 多田先生反省記

 7.夏休み前

 福岡はまだ6月の声も聞かぬというのに、日差しはもう初夏を思わせるほどで、博多の海は夏の太陽が砕け散ったように煌めいていた。大野は仕来りを守って日暮どきになれば涼しい顔で研究室に遣って来た。時には神埼が一緒のこともある。

「先生、今度『や組』の女子学生を連れてきます。一度、先生の研究室に来てお話を聞かせて貰いたいって云ってましたから」

 私は例のお人形のような可愛い女子学生が来るものと胸を弾ませて待ち設けたものの、そんな心根を?(おくび)にも出すことはない。しかし、数日が経て研究室に現れたのは別の二人の女子学生だった。

「先生、川端さんと加島さんです」

「やあ、いらっしゃい。教室でお会いしているけど名前と顔がなかなか一致しなくてね」私はそれぞれの顔と名前を重ね合わせた。

「私たちヨット部なんです。この間、鹿児島でレースがあったんで行ってきました」

「そうなの、どうりで日焼けしてますね」

加島に話を合わせようとの心積もりだったが、よくよく見るに川端の方は日焼けしていなかった。咄嗟には話題もみつからない。大野が私の心中を察したのか透かさず話題を転じた。

「ところで、先生。先生はいつも授業の途中でいろんな雑談をなさってくれますね。あれは咄嗟に思いつくとですか?」

「いや、僕の恩師もね、必ず授業の途中で何か雑談をしてくれたんだ。大学の授業って100分もあるだろ。その間ずーっとドイツ語ばっかりだと君たちも退屈するよね。それで予め考えておくわけ」

確かにドイツ語の予習よりも専らこの雑談のネタ探しに心を注ぐこともよくあった。渥美清演じる「男はつらいよ」は与太話としては度々登場する。時には読んだばかりの小説を巡る話のこともあるが、大方は江戸っ子気質の義理人情に及ぶことが多い。政治と宗教の話は一切しない。

「この間は、任侠映画の話をして下さいましたけど、先生はよくご覧になるんですか?」川端がにやにやしながら聞いてきた。

「博多に来てからは観ていませんけど、学生の頃はよく観ていました。自分でも何でだか解からないんですけど、三島由紀夫ね、彼が自衛隊の駐屯地で割腹自殺したでしょ。あの時も、やっぱり高倉建のヤクザ映画を観に行ったんです」

大野が口を挟んだ。

「この間のお話でしたけど、人は映画を観ている裡に感情移入をして、自分がその登場人物になったような気になってしまうことがある。特に任侠映画の場合、映画に浸りきった観客同士が喧嘩をすることもあるって仰ってましたけど…」

「ああ、あれね。あれはね、やっぱり今年の春に九大を終わって僕と一緒に着任した高宮先生とこんな話をしたことがあったんだ。彼は英文学者でね、文学を研究するからには『感情移入』はご法度だって云うんだ。そりゃそうだろうけど、文学とまではいかなくたって、小説なんかじゃ、どうしたって読み手として気持ちが揺れ動くよね。読んでいて作中の人物に共鳴できるだとか、逆に妙に反発したりすることってあるよな。だから僕は全て論理として取り組める言語学を選んだわけ。話が固くなりそうだね。その感情移入というコトバに引きずられて話が勝手に一人歩きして行っただけ。要するに脚色よ」

「わたしは行ったことはないんですけど、何だか東京って怖いなあ、なんて思ってました」加島がほっとしたようにそう云った。

「東京は別段そんなにおっかなくないですよ。そうだ!君たちもそのうちに東京に行くこともあるでしょうから、今度はシリーズ仕立てにして東京の紹介でもしましょうか」

加島も川端も顔を綻ばせている。やがて神崎も遣って来た。神崎と同じ佐賀出身の加島はアパート暮らしだが、神崎は賄い付きの下宿ということで、このところ居心地の悪くなってきた私の下宿生活に話題が逸れていった。

「どうにも夜な夜な酒を呑みに行ってるんで、婆さんの当たりが芳しくなくてね」

「スミマセン、僕のせいです。先生のお供に託(かこつ)けてくっついて行っちゃ、酔っ払って泊めていただいていますから。それにしてもあそこはヨカですよ、先生。僕に朝飯まで食わしてくれますもん」

「そりゃ、賄い付きなのに滅多に夕飯を食わないんだから、それでちゃらヨ」

「チャラって何ですな?」

「佐賀では云わない?差引ゼロ、相殺ってこと。それにしても婆さん、いろいろ気を遣って若者向けの献立を考えてはいるみたいなんだけどさ…昨日は朝飯の時に婆さん、高校生に「今夜はライスカレーば作りよるけんね」て云ったんで、坊やは喜んで学校に出掛けたよ。カレーって、誰だって好きだもんね。僕も何とはなしにそわそわして、ちゃぶ台に坐って驚いたね…」二人の女子学生は教室とは違う話の展開に思わず聞き入っている。「肉と野菜がゴロゴロご飯の上に乗っかててね、黄色い汁はご飯を通り越して下に溜まってたよ」

「犬の餌のごつありますね」大野が笑いながらそう云った。

「一応、デザートも出るんです。婆さんとしちゃコース料理の積もりなんでしょうけど。それでついつい夜は出かけてしまうわけです。隣のフショウの先生よりはましなんでしょうけど…」初めて研究室を訪れた女子学生相手に顔を向けている私の話し振りはおのずと変わってくる。

「フショウの先生って何ですか?」

加島が聞くので大野が事の顛末を説明している。

「僕も不肖の先生に落ちこぼれまして。それで婆さんの当たりが悪いんです」

大野は私の言葉尻を捉えた。

「先生の部屋は窓がないから日当たりも悪いですもんね」

「そうか!それで、大野君、今日の授業の時、一人で笑ってたんだ。先生、黒板に『僕の部屋には窓がない』っていうドイツ語の例文を書いてましたよね」川端が可笑しそうに云った。

「ああ、否定冠詞の説明のところでね。そうなんです。僕の部屋には窓がないんです」

「先生、僕の下宿ですばってん、別の部屋の学生が出てくらしかです。おばさんが困っとっとぉです。途中で出て行きんしゃぁと、あと半年は空き部屋にせんならん云うて」

「神崎、いつから空くと?その部屋。…7月?…場所は?…ああ、大学の体育館の裏側ね。先生、よろしいじゃないですか。引越しなされたらどうですか?」

 聞けば6畳間だとのことである。江戸間サイズだから今の下宿と広さは遜色がない。窓は南と西に向かって二つあるということだ。申し分ない。神崎はその6畳の部屋に移りたがっているようだったが、大野がそちらは先生の部屋にすべしと申しつけている。話は勝手に進んで、一度聞いてくるということになった。学生と同じ屋根の下で暮らすことに些か躊躇いはあるが、別々の今でも神崎は大野のお伴よろしくひょこひょこと私の下宿を訪ねることもあるわけだし、何よりも夜更けにトイレに行く時、酔っ払って寝ている不肖の先生を踏みつけてしまう心配をしなくて済むだけでも一安心である。

「大家さんは未亡人か?」

「えっ?いや、旦那さんもおらすとです。娘さんも息子さんも先生と同じ位の年恰好かな」

「同じくらいの年って、双子?」

「いや、おばさんとおじさんは再婚同士らしかです。詳しく聞いたことなかばってん。娘さんがおばさんの連れ子んごたるです」

その後とんとん拍子に事が運び、夏休みに東京に帰る前に引越しをすることにした。

私は幼い頃、宮城県にある母方の実家で祖父母に我儘のし放題に育てられた。戦後間もない頃にて、父親は今で云うところの単身赴任の身で、東京の街並みがいくらか落ち着いたところで私は母親と妹と共に東京に呼び寄せられた。父親は函館の出身なのだが、いわゆる本土組の従兄妹はそれぞれ鎌倉と塩釜に散らばっていた。鎌倉の親類筋とは行き来があったが、塩釜は母方の実家からはさして遠い距離ではないというのに、東京にいる時分は一刻も早く祖父母に会いたいという気持ちが勝って一度も塩釜には立ち寄ったことがなく、全く疎遠な親類だった。だが、そこの雅俊が一昨年の春に私の母校の大学に入学したのが縁で、東京で一人暮らしを始めてからというもの雅俊はよく私の家に出入りしていた。その雅俊が7月に友人の郷里である長崎まで足を伸ばすにあたり、私のところに立ち寄ると云って寄越した。雅俊が来る当日は出迎えることは出来ぬまま授業を終えて研究室にいたらドアをノックする音がした。

「やあ、博さん、お元気でしたか」

「ようこそ。空港から直接?」

「いや、下宿に寄ってきました。『ジギョーに行きよります』とか何とか云われたんですよ。『地行』って西新の隣の停留所ですよね。何でそんなところに行ってるのかなって不思議に思ったんですけど、あれこれ話しているうちに『授業』だって判りましてね。いや、面白かった!」

「九州弁って判んないでしょ。僕も初めは苦労したよ」

「長崎から来た奴と友達になったんですけど、僕と話す時は長崎弁は使わないですからね。たまげました」

「それを云うなら『びっくり』しただよ」

 私たちは下宿に舞い戻り、あらためて婆さんに雅俊を紹介した後で、例によって大野も引き連れて中洲に出かけた。

「博さん、こんなこと云っては大変失礼ですけど、あの下宿って随分くたびれてますね。最初、門を入って母屋に行ったんですよ。そしたらあっちの家だって云われました。僕は物置だと思ったんですけど、よく見たら『家』でしたね。こりゃ博さん侘しいだろうなって」

「夏休みで東京に帰る前に引っ越すことにしたんだ。雅俊君は長崎のあとは?直ぐに塩釜?」

「ちょっと東京に寄ってから塩釜に行きます。博さん、今度は塩釜にも来て下さいよ」

「雅俊さんの実家は塩釜なんですか?」

「そうです。市場に近いし、魚もおいしいですよ。大野さんは塩釜には来た事ありますか?」

「僕は東京にも行ったことないんです。それにしても雅俊さんは方言をお話になりませんね」

「東京に行って随分気を遣ったんです。アクセントの方はどうにかなったんですけど、言葉というか、言い回しが地のコトバになることがありますね」

「僕も博多弁を真似しようとするんだけど、なかなか使いこなせないね。この間、電車で女子学生と一緒になってさ、その子が降りていく時『ころばんごつ気ぃつけて行きんしゃい!』って云ったら、『はい、こけんこつ行きます』って返された。難しいね。それと、これだけは直す積もりはないんだけど、西日本の発音には鼻濁音の『が』がないんだよ。『学校』の『が』と『学校が』の格助詞の『が』が同じ音なのね。これだけはどうしても気に入らない、僕としては。こっちの人からすればどうでもいいのかも知れないけどね」

「雅俊さんは学部はどちらですか?」

矢張り、東西を問わずして、この話題はどうでもよかったようだ。

「経済学部です。どの学部でもよかったんですけど、入りやすかったし。兄貴たちから、とにかく大学は出るように云われましたから」

「というと?」

「僕は料理人になる積もりなんです。大野さんは?」

「僕は法学部です。将来はホウソウ関係に進みたいんです」

「NHK?」

「いや、弁護士になりたいんです。でも、城南ですからね。危ういところです」

「だから辞めて九大に行けって云ってるだろうが」

「先生、そうなんです。僕あれ以来ずっと考えよるとです」

雅俊が長崎に向かった数日後、大学から借りてきたリヤカーに加島と川端を乗せて、大野が引き方となってやってきた。神崎はつんのめりそうな腰つきで後ろを押している。

「先生、リヤ・カーって和製英語しょうけど、変ですよね」大野が唱えた。

「何で?」

「だって、元々はリア・カーの筈ですけど、それはヨカばってん、リアはフロントの反対のコトバですよね」

「そうだね」

「でも、僕は前におって、これば引っ張ってきたとです。何でリアってなるんでしょう?」

「オイは後ろから押してきよったヨ」神崎が噴き出す汗を拭いながら口を挟んだ。

「ドイツ語ではどうなるんですか?」

私は聞こえないふりをして荷物にかかわった。

引っ越しは瞬く間に終わり、私は東京へと旅立ち、さらには母方の実家そして雅俊のいる塩釜を渡り歩いて夏休みを過ごした。その間に福岡の大野からは2通の手紙が届いており、いずれも末尾は「博多の一番弟子より」と結ばれていた。


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